東海道本線:石部/磯浜トンネルの謎

あんせる

2019年10月25日 16:40

歴史散策 :今回は 番外寄り道編.. 出会った《石部/磯浜トンネル》.. で油売り? 興味深い街道の探査&散策の勢いに乗って
トンネル銀座を歩き回っている内に、運命の出逢いか?..ずっと気になっていた.. 懐かしいトンネルに巡り合った!
《 旧東海道線の石部/磯浜トンネル》だ!思えば.. 10歳前後? だったかな~ 幼い頃の記憶が.. 解けなかった疑問とともに
鮮明によみがえってきた!

その昔.. 東海道本線の静岡-焼津間にあった、2本のトンネル(当時は連なっていたが..今は1本に統合)のお話です(^^ゞ
静岡側を”石部トンネル” 焼津側を “磯浜トンネル”と呼んでいた .. 実は筆者はかって静岡市民.. ここは活動圏内で見慣れ
ていたのだが、当時から、どうしても解けないトンネル(道路だったかも?)の謎があったのを思い出した(^^ゞ

この際だ.. じっくりと謎解きしよっか! と意気込んで踏み込んだは良いが.. 四苦八苦の悪戦苦闘 これはその顛末紀です!
と いう事で、テーマから大きく外れちゃうかもしれませんが、実際は 興味津々 ウズウズ..どうしても知りたい寄り道の巻き?

《記事は自己転載ですが.. 下の アニメ画像をクリックして、オリジナル記事【撮り撮り日紀】へジャンプ.. ご覧頂けます》


それは小生..10歳を超えた頃のある日、親父のダットサンに乗って、菊川から静岡への帰りに焼津の小浜から静岡(用宗)
へ至る道中で通過した筈の2本のトンネル.. 《磯浜トンネルと石部トンネル》..どのように通過できたのか?にまつわる事!
お話は長くなるので お急ぎの向きは.. 拙作ホームページWha't Newのこちら《街道で出会ったトンネル達》から直行を


石部(磯浜)トンネル焼津側小浜集落 旧磯浜トンネル坑門 磯浜海岸 崩落した石部トンネル坑門

焼津市の小浜集落のJR東海道本線..石部トンネル(旧磯浜トンネル)の入り口付近の風景、旧磯浜トンネルの坑門です!
ちなみに《磯浜トンネル》とは..JR東海道本線の用宗~焼津間にあったトンネルで、磯浜トンネルと云う名前は消えましたが
トンネル自体は残存.. 現石部トンネル 焼津側小浜坑門から数百メートルの旧磯浜トンネル部分は現在も活躍している!

※以下は、自前のホームページ《写真機の森》の立ち上げ当時に併設した :拙作ブログ撮り撮り日紀からの転載です(^^♪

旧東海道 :第八回目 は..街道のトンネルで油売り?(石部/磯浜トンネル編) ほんとうは・・・ 興味津々で寄り道?の巻き!
題して.. 《磯浜トンネルの謎》 :明治22年、焼津~静岡間に、新しい東海道本線と2本のトンネルが竣工した..

共に新に開業した静岡~浜松間の静岡と焼津の境に位置していた、静岡側を「石部トンネル」(910m) 焼津側を「磯浜
トンネル」(970m)といい、当初は単線で1本づつであったが、後の明治44年に並列にもう1本づつが竣工して複線化
している。
山側の上り線、海側の下り線、どちらが先に掘削されたのか?は不明です、素人的には山側が先と思えるが?・・・

平成の現在、かっての2つのトンネルは統合さてれ「JR東海の東海道本線石部トンネル」として現役活躍中である、
例によって2つのトンネルの位置はこちらです、現在は両トンネルが通しで1本の「石部トンネル」(地図上は1列ですが
実際は上下線が並行で2列)と言う名前になっています、

写真は現在の東海道本線石部トンネル(旧磯浜トンネル)の焼津側の小浜坑門です、黒くすすけたポータルは、今もなお
昔の蒸気機関車時代のなごりを色濃く残しています、電車のいる右側が下り線です。


こちらは「石部トンネル」静岡側の石部坑門です、元の位置はもう少し奥にあったのですが崩れやすかったせいかコンクリ
ート製ポータルで補強延長されている、当時のなごりは石垣だけになってしまった・・・ それにフェンスが設けられて、
立ち入れず、上り線側しか写らないのは残念・・ワイドレンズがない?

やむなく少し離れた踏み切りから見ると・・上下線の坑門が見える? なんと3つ目? 真ん中は無関係、右が上り左が
下りです、それにしてもここまで民家が立て込んできて、以前は右に蒸気機関車、左に海岸線が見える絶好の場所だった
のですが・・・


おっと話を戻して、ここ静岡~焼津間は古来からの交通の難所として知られた場所であった、南北いっぱいに400m前後
の山々が連なり、難所と言われた急峻な峠を越えるしか往来するてだてがなかった様だ、

日本武尊も往来したという焼津花沢~「日本坂峠」~静岡小坂や、在原業平の鞠子~宇津ノ谷峠~岡部の「蔦の細道」
同じく豊臣秀吉の「出世街道(旧東海道)」などの難所の街道が現在も残っている、

2つのトンネルは南の「日本坂峠」の更に南、大崩海岸すれすれの急峻な山を貫いていた、現在は更に海岸よりの断崖
絶壁の上を国道150号線が通っていて車での往来もスイスイである。

古代にはこの道はなく、この地区の人々は潮の満ち引きをみて浜辺を歩いて往来したという、後に切り立った崖の上を縫
うように獣道的な小径ができ、徐々に伸びた後に当目隧道や小浜隧道、石部洞門を作り県道として開通したのは昭和18
年頃の事、後に国道150号線に昇格する

石部トンネルと磯浜トンネルの開口部は僅かに山が切れて、平になっていて距離は800m前後と短かく、両トンネルに
2つずつ並んだ4つの坑口が少し離れて対面する形になっていた、またこの場所は先の国道150号線より僅かに南に出
ていて、海岸線から見上げると、ちょうど道路の下に坑門が顔をだした形になっている、(便宜上石部トンンルの坑門のあ
る側をP1と呼ぶことにします)

遠くから見るとこんな所、中央やや右手に見えるのは国道150号線です、こんなに切り立った断崖の上を通っています、
左手の山の先端でやや平に見える所の突き当たりに2つ、少し手前の右奥に・・ 問題の2つの坑門があった場所です。

ここへは右手の岸壁の先端からテトラポット伝いに行けば・・・ 現場へ行けるのですが、足場と潮が気がかりで、いささか
腰が引けますね・・・帰り道がなくなったり?!


振り返って後ろ! 反対側の静岡方面には海上橋があり、たもとの小さな駐車場からここまで歩いて来られます、ここまで
は足元は安泰!スニーカーで大丈夫、そうだお天気が良いと富士山が・・・それにしても素晴らしく切り立った大崩の
山々が覆いかぶさっているのが見えますか!このあたりでは有数の景勝地でもあります・・・

さて、ここまでは何の変哲のないトンネルのお話ですが、景色の話はここまでにして、、ここからが、お話の本題?・・・
ここからは、様々な異変が起こります!?

時系列にいきましょう! その前に・・先に言ってしまっては実も蓋もないのですがこの2つのトンネル、古くから交通の
要所に作られた為か、他に例がないほど、、波乱万丈の歴史をたどることになるのですが、まずはご一読を・・・

:新しいトンネルの出現!昭和16年頃に持ち上がった「弾丸列車(標準軌高速幹線鉄道)計画」<なんと海を渡って
北京に至るという壮大な計画だった? これが太平洋戦争中に、実行され、工事が難しいトンネル部分から着手された
昭和18年、早くも先の「石部トンネルの北側」に1本で上下線を収容する「日本坂トンネル」が完成する・・・ 
ところが、戦況の悪化により「弾丸列車計画が頓挫しあえなく中止」されてしまった!出来たばかりの「日本坂トンネル」
は行き場を失って無用のトンネルと化した・・・

同じ頃、すでに50数年を経過し石部/磯浜トンネルにも支障が出始めていた・・貨車が大きくなったせいか、開口が小さく
て大きな貨物が通れないと・・やむなく大きい貨車は中央線を通したりしていたというのだ!
そこで石部/磯浜トンネルを通っていた「東海道本線」の路線を「日本坂トンネル」へ付け替えて通すことになった、
昭和19年のことである。

こうして東海道本線が新しい「日本坂トンネル」へ移った為、元々の「石部トンネル」と「磯浜トンネル」が空いてし
まって、放置されることになった・・・

昭和19年、無用のトンネルとなった「石部/磯浜トンネル」は、以後ローカルの「一般道路に転用」されかろうじて役目を
果たしていた・・・つまり汽車ではなく、人も自転車もオートバイやリヤカー・自動車も自由に往来できたのです!

余談ですが、この頃に地元の私鉄:静岡鉄道によって、空いた石部/磯浜トンネルを活用する計画が持ち上がり、静岡
から焼津経由大井川までの路線が計画され、申請、昭和25年には認可が下りた、
地元の利もあってこの計画の実現性が高かったが、おりしもこの頃に後述の「東海道新幹線」計画が持ち上がってきて、
これの為に東海道本線が出戻りで、遊休中の石部/磯浜トンネルを使う計画になった為・・実現しなかった。

ところが昭和23年9月に来襲したアイオン台風の被害でP1の「石部トンネル側の下り線坑門の半分」が大崩海岸へ
崩落してしまいました・・・

後のお話のために、注目したいのは、このとき崩落した坑門は1つだけで、他の3つの坑門は崩落せずに残った!
また橋梁/橋脚はあったのか?なかったのか?有ったとすれば、上下線共通で1脚なのか? いくつが崩落したのか、
などの詳細は不明です、 

実はこの時の被害で「往来が出来なくなったかどうか?」 が、このお話の最大の焦点!なのですが、、 これは後で・・・

昭和37年、懸案の「東海道新幹線」計画が実行され!その専用トンネルは元々弾丸列車用に設計され、開口の大きい
「日本坂トンネル」!を通すことになった、また新幹線ルートの静岡側に新しく同名の石部トンネルと用宗トンネルが竣工
する、、当然ながら!「東海道本線」は「日本坂トンネル」を追い出されて、元のもくあみ? 古巣の石部/磯浜トンネル
へ返り咲く!事になった、

しかし「東海道本線」を石部/磯浜トンネルへ戻すにも、この時すでに「石部トンネル側の下り線坑門の半分」は大崩海岸
へ崩落していた・・・ 昭和23年アイオン台風の被害のまま放置されていたから?
また「石部トンネル」が通っている大崩の山間部は、極めて海岸に近かった為、崩壊したP1以外の部分も海岸侵食が
激しくトンネル本体に危険が及ぶ箇所が多く使用を危惧されていた、

そこで、既に崩落した石部/磯浜トンネルP1部分を廃棄し、ここを回避する形でずっと山よりを通るルートに新たにトンネル
を掘り、両トンネルの良いとこ取りで繋ぎあわせた形に改修した、結果的にトンネルはつなぎ目なしに一本化された、
このとき「磯浜トンネル」と言う名前が消滅する、、同時に先の崩落部分P1はトンネルルート外の無用な位置になって
放置されることになってしまった・・・

ここが問題の崩落部分です・・・大崩海岸でもここだけは、ほんの少しですが山が切れてやや平地?になっていて、
石部/磯浜トンネルの接続部が開口できる地形になっていた・・・ 今も波うちぎわには崩落した残骸がみえる、



崩落した下り線レンガ積みの坑門?橋脚?です、塊りになった赤レンガはなお哀れ崩落時、そのまま放置され、今日ま
で60年間もここ大崩海岸で波に任せて、なんとも無残な姿をさらしている、無理して近づけば、他の残骸が、また崩れて
残ったトンネルの開口部や山側の原型をとどめる坑門が見られるのですが、今回は安全優先!にて接近せず、そのうち
装備を整えて探検&撮影!・・・ かも、



ときに「磯浜トンネルの石部側坑門は、崩落していなかったが、同様に廃棄された、トンネルは内部で山側へ掘り直して
いるので、不要となった坑門部分はそのまま残っていたはずなのだが・・・

しかし現在その所在は不明のまま、、位置ははもっと西よりなのかも知れない・・ よそ様が撮られた現地の写真にも写っ
ていない? 現地にあれば恰好の被写体なので撮影されるはずなのだが?存在しないから写せない!のだろうとも思う
のですが・・・

ここのところが何としても謎な部分である、、現地は急峻な大崩の斜面の途中!・・ 長い間にその場で崩壊したか?
埋もれてしまったのかなー?、、 その後の台風などでもニュースにもならない崩壊があったのかも知れない・・・

実は石部/磯浜トンネルが一般道に転用していたこの時期(昭和19年~37年)に筆者はここを車で通った事が有るので
す!・・・ 今でも鮮明に記憶が残っているのですが、

ここが是が非でも突き止めたい謎!なのですが、この「一般道路転用」のこと自体の記録も見つからず、何処にも情報が
無いのです、もっとも今時、「磯浜トンネル」など知っている人は地元、静岡の石部や焼津の小浜の人でもまれかも?
資料は何処にも無い? いやまだ見つけられないのですが! しかし現に筆者自身が親父に連れられて車で通過してい
るのだから、、
また、一般道転用のことは、地元小浜に出向いて複数の長老からヒヤリングして確かめた!ので間違いないのですが、、

そこで謎なのは、通った時期、当時の筆者の年齢から見て(昭和28年前後)は、あきらかに坑門が崩落(昭和23年)
した後になるはず! それなのになぜ通過できたのか?・・・ これが筆者にとって長年の謎なのです、、

よく見ると、、崩落したのは海側の石部トンネルの下り線の坑門のみで、上り線の坑門と、推測だが西へ数百メートル離れ
ている磯浜トンネルの上下線坑門は当然、無事に残っていたはずである?!
よって筆者が焼津の小浜側から、磯浜トンネルの上り線転用の道路から進入し、問題の磯浜/石部トンネルの接続点
(崩落部分)で、石部トンネルの上り線転用の道路へ進入出来れば、問題なく通過出来る事になるのだが・・・

この山側(上り線側)の入り口の橋脚は崩落していなかったか?否かが問題?海岸の崩落現場には橋脚らしき残骸?が
あるという、また崩落せづに残っている山側(上り線側)を含めそもそも坑門前に橋脚があるかないか?
よそ様が撮った写真を穴の開くほど観察しても明らかに橋脚が存在する!という確証は得られていません?・・・

仮に橋脚が残っていなかったとすれば、問題の磯浜/石部トンネルの接続点をどのようにして通過出来たのか?推定が
困難です、もっとも重たい蒸気汽車に比べれば、軽い小さな乗用車などは仮設の迂回路でも作っておけば、充分通れて
いた!なら話は簡単だが、、

先の地元でヒヤリングした長老のお話では自転車やリヤカーが通れる程度の小規模な道路・・1本だけだったともいう、、

しかし筆者が現実に車で通過したのだから、、間違いなく通り抜けられる状態だったはず、最も当の乗用車は今の軽自動
車位の車幅しかなかったから・・・
事実から推定すれば、崩落した部分でも道路部分は無傷?か、小被害で、なんらかの補修? 例えば仮設橋等の改修
がされていたはずなのだが・・・

筆者の記憶では、車は父親の運転する初代ダットサン、焼津側の小浜から左に、小高い東海道本線の線路を見ながら東
進、、小浜集落の中央あたりにある「磯浜トンネル坑門」に進入した・・・ 

中は真っ暗で気味悪く、壁面は掘りっぱなしのごつごつした岩肌が続いていた、天井に蒸気機関車のすすが付いていた
か? は記憶がない・・路面は無舗装のでこぼこ道で水溜りだらけだった・・・ 
中間あたりで「海と空」を見たはずなのだが、この部分は記憶がぼやけてはっきり覚えていないです!なんたって7~10
歳くらいのハナたれ小僧でしたから・・・

トンネルから出た位置は、静岡側、用宗駅近く・・現在の東海道本線の坑門位置、間違いなく赤いレンガ作りの坑門だ
った・・・

なお坑門は1つしか記憶に残っていない、 後に(昭和35年頃?)海側(下り線)の坑門がフェンスで閉鎖されていたのを
覚えている、、
おそらく道路転用していたのは山側の上り線1本だけだったのでは? 下り側は石部トンネル出口部分が崩落しているの
で、通れない? もっとも焼津も用宗側とも坑門は2つ並んで有ったはずだが、、

現在も焼津市役所他の心当たりを回って情報と資料を探査していますが、さっぱり見つかりません、、何処かにあるはず
なのですが・・
 
そこで唐突で誠に恐縮ですが、どなたかこの謎&疑問を解いて頂けないでしょううか? 時期から言って昭和10年前後
のお生まれの方でないとこのトンネルとの接点がないのですが、、

もしご存知の方がおられましたら、断片的で結構ですから、是非コメントの投稿を頂きたいと思います、どうぞコメントへの
書き込みをお願い致します。

追記1!本編は後日の独自調査により謎が解明できました!全容は次編の「磯浜トンネルの解」を参照下さい、この時点
で分らなかった様々な事実の判明や、いくつかの思い違いが発覚しました・・・

追記2!本家HPへ「街道で出会ったトンネル達」総集編をUP.. 追記3!大崩のあのトンネルが崩壊!新たな崩壊をUP


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